2007 11/07 更新分

ルポ メニューへ
 【四日市環境再生まちづくりプラン】まとまる <上>

研究者・市民・行政が一体になり3年かけ『政策提言報告書』
検討会議、市民会議中心に“四日市モデル”の構築期待
4つの政策理念と環境再生・都市再生に向け6つの課題を提起


日本環境会議(JEC)の会員や地元の大学などの研究者が手弁当で3年の歳月をかけて調査研究にもとづき、「四日市環境再生まちづくりプラン検討委員会」が検討し、とりまとめた『政策提言報告書』―都市のアメニティの再生を―が、07年7月21日四日市市で開催された「環境再生まちづくり提言の集い」で発表されました。
この『提言』は研究者を中心にした「政策調査研究会」と、地元の行政や住民運動組織、公務労働者組織のネットワークで構成された「まちづくり市民会議」の2つの組織が両輪となって作業し、まとめられたものです。

『提言』は、四日市を維持可能な社会にするために4つの政策理念を掲げ、環境再生・都市再生に向けて6つの課題を提起しました。そして、今後については今回の集いを前に結成された「四日市まちづくり市民会議」の活動に期待し、環境学習と環境教育、真の「四日市学」の提唱を呼びかけました。さらに、これを契機に、「公害のまち」から医療・保健・福祉の先進都市に転換し、維持可能な社会の“四日市モデル”が構築されることに期待を込めました。
写真:全国各地から約300人が参加。熱気を帯びた『提言』発表の場となった

四日市公害判決35周年を記念して四日市総合会館で開催された「集い」には全国から約300人が参加、午前10時から宮本憲一JEC名誉理事長が基調講演を行い、続いて遠藤宏一南山大学教授ら4人の検討委員会委員が提言発表、午後には水島、西淀川、名古屋と地元四日市の代表がパネル討論を行った後、「集い」アピールを採択、最後に淡路剛久JEC理事長がまとめを行い、午後5時ごろ閉会しました。

「集い」で行われた講演、パネル討論のほぼ全文を上・中・下の3部に分けて紹介します。
なお、四日市環境再生への課題や『提言』に至るまでの各部会の検討経過などは機関誌『環境と公害』第37巻2号に紹介されています。
【文責:司 加人/写真:山下英俊】

【開会あいさつ】  北島義信 (四日市まちづくり市民会議代表・四日市大学教授)

地域住民・市民の願いと論理を有機的につなぎ実行したい

本日の集いは3年もの長い月日をかけまして、それぞれの分野の先生方が中心となって作成頂きました、四日市環境再生まちづくりの提言と討論がメインになります。その提言を作成いただいた宮本憲一先生をはじめ多くの先生方、また、パネル討論に参加いただく西淀川、名古屋南部、水島および四日市の現地の方々に心からお礼を申し上げます。

ご承知のように、本年は四日市公害裁判住民訴訟勝訴35周年になります。
四日市は国家の産業政策に依存して、コンビナート等の巨大企業誘致を行い地域開発をしてまいりました。これらの政策は健康被害のみならず、臨海部、中心部、山間部での人口減少と高齢化、内陸丘陵地における人口増加という不均等発展の拡大の大きな原因を生み出した訳です。大気汚染公害の硫黄酸化物につきましては、近年一定の効果をあげてはおりますものの、窒素酸化物については、三重県の定めた環境目標が達成できていない地域もございます。公害病認定患者は500人もいらっしゃいます。
最近、石原産業のフェロシルト問題、それから私の大学のちかくにある大矢知の産業廃棄物問題、それから霞第三コンビナートから海の上を通って湾岸道路の川越まで高架で結ぶ道路建設問題などがおこっております。この道路によって非常に貴重な高松干潟が破壊されようとしております。
これらの事柄をみれば四日市公害は決して終わった訳ではなく、新たな公害が始まったともいえます。
写真:僧侶でもある北島さん、心だけでなく実行を強調した

さて、今回の提言ではまず四日市を維持可能な都市に、そして、水の都の再生、内発的発展の産業政策へ。そして、住民参加の自治体へ―といった事柄につきまして理論的・具体的内容がのべられております。重要なことはこれらの提言および討議をへてこの地域に暮らすわたしたちが、具体的に主体的に動き出すことであります。
都市再生の主体は宮本先生も常々ご指摘されているように市民であります。これらの提言に市民の皆様からご意見をいただき、そして討論に参加いただくことを通じて諸課題は主体的血肉化されるのではないかと思います。

市民が都市再生の行動に参加する条件は実はあります。都市再生の活動と住民の日常生活の間に大きな乖離はございません。
私は浄土真宗の寺院に生まれ、住職をしています。浄土往生を遂げた父は生前、地域の人の為に生きよと常々申しておりました。四日市再生の課題を実体化させるのは僧侶としての私の喜ばしい課題でもあります。なぜなら、真実は心の中だけでなく、その実体化、現実化を伴うものでなければならないからであります。地域住民、市民の願いと提言の両方を有機的につなぐ論理と違いを本日の集会から得ることを祈念しましてご挨拶とさせていただきます。

【歓迎あいさつ】   葛山善次(四日市職員労働組合執行委員長)

この提言が20年後、30年後の四日市のまちづくりの転機に


本日の四日市環境再生まちづくり提言の集いに全国から集まっていただいて、地元四日市からのお礼と歓迎のご挨拶を申し上げます。
四日市という地名は皮肉にも沢山な命が奪われるほどの深刻な公害問題によって全国的に有名になりました。そして、その四日市公害裁判で原告となった住民の皆さんが勝利をするという歴史的判決からこの24日で35周年を迎えます。こうした時期に、日本環境会議の研究者、そして市民の皆さんが、環境再生をキーワードに四日市のまちづくりのありかたについて、長期的かつ幅広い視点で研究かつ提言をいただいたことになりました。ご協力いただいた皆様にこの場をお借りしてお礼申し上げます。
写真:身の程知らずの冒険と思ったが多方面の協力に感謝すると葛山さん

私たち四日市職員労働組合連合会は、その名が示すとおり四日市市の職員で構成する労働組合です。わたしたちの先輩が、四日市公害訴訟で公害訴訟を支持する会の事務局を担いまして、市民の側に立って大きな役割を果たしてきたという歴史をもっています。このことは労働組合として職員組合員の利益を守るだけではなく、市民の為に必要とあれば社会的役割を果たすという重要性を私たちは常に認識しながら活動すると言う方針を持ち続けていますし、その原点としてことあるごとに思い起こす価値のある教訓であると思っています。
実は、5年前の2002年7月の公害判決の30周年の集いで、当時の私どもの委員長や書記長が日本環境会議の寺西先生の講演を聴いたのをきっかけに、「環境再生」をキーワードにした四日市の町づくりプランを作り、私どもの運動方針に掲げようという事になりました。当時私も役員の一員でしたが、「言うのは簡単だけども・・・」と思っていました。いま考えて見ますと、私ども身の程知らずの冒険に打って出てしまった訳ですが、幸いにも日本環境会議をはじめとする第一線の研究者の皆さんが四日市のために手弁当で、しかも最高の英知を結集していただいたことやシンポジウム、市民講座を開催して、市民の皆さんに検討の過程を公開しながら大きな広がりと厚みのある研究活動を展開していただきました。その集大成が今回、政策提言としてまとめていただいたということであります。

残念ながら四日市では現在も日本最大級である産業廃棄物の不法投棄問題やフェロシルト問題など、環境に関係するさまざまな問題がづぎづぎと発生しております。こうした当面の問題についても今回の提言のなかで言及していただいておりますし、この後の集いの中でも議論していただけると期待しております。いずれにしても、今回の政策提言・集いが20年後、30年後の四日市のまちづくりの転機になったというように、評価されることを期待するとともに、今後も市民の皆さんと一緒に必要な取り組みをおこなっていきたいということを申し上げて四日市市の歓迎とご挨拶にかえます。
【基調講演】 宮本憲一 (四日市環境再生まちづくりプラン検討委員会代表・日本環境会議名誉理事長)

今回の『提言』 地域研究では最近にない“ヒット作”
肝心なのは地元の人たちがどう受け止め、どう動くかだ


いま、私はここに立って非常にうれしい思いをしています。
その一つは、皆さんのお手元にある「都市アメニティーの再生」という3年間の研究者の成果がまとまった事です。おそらくこれは地域を研究したもの中では最近にないヒット作であると思います。第一線の研究者が共同で地域の分析をした成果が非常に多く現れています。私の話も、これを策定する過程でみなさんがやってくれた事に立って進めたいと思います。そしてもう一つは、今日ここに沢山の四日市市民の皆様がいらっしゃることです。これから提言を実行していく主体がここから形成されていく期待感をもって話が出来ることを大変うれしく思います。
写真:35年間を回顧しつつ、『提言』を高く評価する宮本さん

私はちょうど35年前の公害判決の時に四日市に来ていて、壇上に立たされて感想を言えと言われたのですが、隣にいた人に「先生、勝ったって言うけど、煙あがってるぜ」と言われて、とても衝撃的だったことを覚えています。
あの裁判は非常に難しい、まあ、日本における戦後最初の亜硫酸ガスと健康の問題を立証する裁判で、これが実現すると、それこそ全国の大気汚染患者を救済しなければと言う幕が開ける重大な裁判でした。難しい最初のケースでしたので、とにかく「救済する」ということに全力をあげざるをえない。私は弁護団の途中の会議でも「差し止めしなくていいの?」と発言しましたが、「冗談言わないで下さい。我々は救済でも勝つか負けるかわからないのに、そんな余計なこと言ったら、この先裁判できなくなってしまいますから、先生黙っててください」なんて言われたことを昨日のように覚えています。
その時からやっぱりちゃんとした公害対策と綺麗な町を作るって事が目標であるにもかかわらず、とにかく責任を認めさせて救済すれば済むのかなと思っていた時に、隣で「先生煙あがってます」と言われ
て、やっぱり、本当の被害者の心情は「この町をもっと変えなきゃならない」という思いだったんではなかろうかと思った次第です。その思いが35年も続き、おそらく市民の願いとして、公害裁判で問われたものの本当の解決策を求める、という事がこの集会として、エネルギーとして結集されていると思います。


何が解決して、何が残ったのか、しっかり検証しよう

さて、最初に、四日市公害裁判の意義、何が解決して、何が残ったのかについてお話したいと思います。
先ほど言ったように、実は戦前から亜硫酸ガスが農作物や人体に影響をあたえると言うことでは、沢山の公害反対運動や裁判がおこなわれていましたが、戦争中は途絶していて、戦後を迎え、しかも産業構造がかわるから戦前のような公害は起きないだろうという漠然とした意識のもとで高度成長が始まったものですから、はじめは本当に公害無策という状態といっていいほど、国には法律も何にもありませんでした。地方自治体のほうが公害防止条例を先につくっていましたが、たとえば最初に基準を決めた大阪府の条例は労働災害で基準を決めるというとんでもないものでした。これがまた韓国に普及して、あちらでも労働災害で基準を決めるものだから、公害が納まらない時代でした。そういう意味で、四日市公害裁判は公害対策の戦後最初の口火を切ったと言っていいと思います。原点争いはあまりしたくありませんが、水俣病が原点と言う人もいれば四日市が原点と言う人もいますが、少なくとも日本の公害対策の基本的考えやあり方を決めたのが四日市であったことは間違いありません。これは橋本道夫さんも言っていますが、日本の公害対策の原点は四日市であると言えるんではないかと思います。
それだけではなく、これは地域開発とか都市計画というものに決定的な影響を与えました。四日市市の都市計画、この間、西村幸夫さんの話を聞きましたが、これは都市計画の研究者にとっては、モデルになっていたらしく近代化の過程で、四日市の発展は典型的な形で工業化・都市化していったらしい。教科書に載っていたような所で公害が起こったことは、都市計画をやっている人たち、これをもって全国の地域開発をしようとしていた通産政策の人たちにとっては大変な衝撃だったろうと思います。
同時に、後に三島沼津の市民運動に「ノーモア四日市」という形で伝わり、その後の市民運動の展開と革新自治体を生み出すような、市民運動というものが政治勢力として力を発揮する最初のきっかけを四日市公害問題が拓いたとも言えます。そう考えますと、公害問題の原点はやっぱり四日市だと歴史が評価するのではないでしょうか。

そして、この公害問題は日本の公害問題の性格を変えたといってよいでしょう。というのは戦前、足尾銅山や佐賀関の公害、あるいは日立の鉱山の公害など色々ありましたが、それらは産業対産業の対立でした。つまり近代化で前進しようとする鉱山や工業と、その意味で言うと遅れている農業・漁業が工業化の中で侵されてしまう対立。いわゆる経済的利害の対立でした。ところが、この四日市の問題は、初めてそうではない、企業対市民の対立。だからこの問題が解決した場合は、戦前なら補償がおこなわれて両方の産業が共存し利益が得られましたが、四日市問題のように企業によって人権が侵された場合は、たとえ勝ったとしても健康が元に戻るわけもなし、経済的な利益、もちろん補償金は貰うわけですが、それは産業が得られる経済的な利益とはまったく性格が違う、人権対企業利益というまったく新しい公害のありかたがこの四日市裁判で明確に始まったと言えるわけです。ここがこの事件が重視される第一の点だと思います。

第二は非特異性疾患という点です。水俣病やイタイイタイ病は特異性疾患です。これは原因物質も明確にされているわけですが、この四日市喘息は非特異性疾患です。裁判の時よく言われましたが、先生たちは気管支喘息を重く言うけど、これは山の中だって起こる病気だ、どこにでも起こるような問題とそれを煙と結びつけるのは問題があるんじゃないか?と非常に乱暴なことが最初の頃は言われたものです。
しかし、もし工場のばい煙によって非特異性疾患である喘息が起こるのであれば、これは亜硫酸ガスを出している工業地帯、都市では全て起こるということになるわけです。そういう普遍性を持った被害だということが裁判で明らかになってしまうわけで、これは実に重要な問題、つまり公害問題ってのは特定の地域・工場の問題ではなくて全国土の問題であり、認識がされうる裁判として始まるわけですので、逆に言うとコンビナートの6社だけが頑張る問題でははく、日本全国の企業が頑張る問題でもあるわけです。ここでそのことが明らかになると全国の企業が訴えられる可能性がでてくるわけで、そういう意味では従来の公害問題を塗り替える新しい問題提起であったと言えるわけです。

第三は、それほど普遍性をもっている、つまり高度成長があればどこでも起こるという普遍性がある公害であったにもかかわらず、日本政府の対策、自治体の対策は遅れていたわけです。あるいは、あわてて作ったばい煙規制法が1962年に出来るのですが、驚いたことに最初に四日市に指定しなかったんですねえ。あれだけ62年には新聞にも出てますし、私も論文に書いてますし、社会問題にもなっていたのに。しかし慌てて、大変だってことで63年に適用したのですが、もうそれは昭和4年に住友鉱山が開発した排煙脱硫で亜硫酸ガスを落としうる技術以下のもので、ほんとにどこのコンビナートでも何にも対策を施さなくったって規制クリアできうるような基準で決めたんですよ。そういう法律が出来たらかえって悪くなるっていう典型で、それだけ汚してもよいと言うルーズな法律を作っちゃったわけです。
ですから、このまま、進んでいたら、おそらく日本全国、大変な汚染の状況に追い込まれていたはずなのが、この裁判が起こってから、どうしてもそういういい加減な法律というのは改正せざるをえない。そこで、そういうルーズなその法律と、それからそのルーズな法律にもとづいて、そのころは四日市型のコンビナートがもっとも高度成長の先端をいくと、これが、日本の戦後再生の軸だというのがあっちこっち、それも大都市圏、瀬戸内、一番その人口の密集した所にどんどん作られていったわけです。そういういい加減な法律、それで規制しながら行われていく大規模なコンビナート開発の先端を行くのが四日市でありましたから、これが裁かれるってことは、つまり、日本の公害対策・地域開発のあり方を問う、そういう裁判であったわけでありまして、ここで裁かれることは日本政府およびコンビナートを作っている企業群にとっては重大な転換を迫られるものになったわけです。

そして第四は、さきほど少し触れましたが、全国でコンビナートをつくっていくもんだから、四日市と同じ問題が必ず起こるということは誰の眼にもわかるんです。で、ノーモア四日市というのが当時の運動のスローガンになったと言いましたが、それを実際に実行したのが三島沼津であり、静岡県の三島・沼津では、日本の歴史上はじめて環境アセスメントを住民が行うことによって、四日市と同じようなコンビナートを駿河湾につくれば大規模な公害のおそれがあるとこれを阻止したのであります。その影響は全国に広がり、各地で市民運動がアセスメントして、四日市の二の舞をしないようにと、地域開発を改革するという運動がはじまり、この運動を背景にしながら全国に公害問題を政策の中心におく革新自治体が3分の1誕生するという、いまでは考えられない日本の歴史上かつてない革新がおこなわれたわけであります。
つまりそれだけ普遍性があったというのがこの四日市公害の特徴ではないでしょうか。事件そのものが加害の状況、被害の状況、そして対抗する運動の状況に普遍的な教訓を与えるものであったということが四日市裁判が戦後公害史の原点になり得た理由です。これがなければ水俣病の解決もなかったでしょうし、私の本にも書きましたが、フィンランドにも影響を与えました。フィンランドの学者がよく調べてフィンランドのネステという国営石油コンビナートを作るときは四日市の二の舞をしない、四日市とはまったく反対の方向で作るんだというほどの影響を与えたわけです。


若い人たちに読んで理解して欲しい「裁判記録」

このように国内外に非常に大きな影響をあたえたものの、地元ではどうだったかというのが次の問題です。
判決がどういう影響を与えたか。ぜひ若い方々は四日市裁判の記録と判決を読んでいただきたい。いまから読んでも貴重なことが論争され、判決になっています。したがって、多岐にわたるんですが、ここでは3点にしぼってお話しします。

まず四日市裁判のハイライトは疫学によって被害を認定したということです。
公害問題では、因果関係を明確にし、被害の実態をきわめて、因果関係をはっきりさせて、責任をとらせるというのが実は、最初のそしてそれが一番大事なことなんですが、これがなかなかむずかしいわけです。水俣病がいまだに解決しないのもそこにあるのですが、この場合、疫学を裁判所に認定させる。
つまり大気汚染のように広範囲の人が、そしてまた複数の発生源が集中していて、個々の発生源が不明な状況のもとで起こっている。こういう場合にどうするかってことになれば、疫学の方法をとるしかないわけで、実際に1000人をこえる人々を全部調べなければならないわけですが、そういう形で、一人一人の健康とそれを汚染した物質の因果関係を調べることは不可能であり、しかも結論は出ないに決まってます。それを疫学という形で、一定の汚染地域があって、それだけの汚染状況があれば、喘息がおこるという蓋然性があって、しかも、汚染のないとこと比べると、あきらかに疾患率が高い。しかも、そこに居住して大気汚染以外の原因がほとんどない、あるいは微少であるという人間は明らかに大気汚染疾患だと認定するという、疫学のような統計学的な方法をこの裁判は採用したわけです。この採用によって、その後の裁判は同じような手法が確立されたわけですが、当時、裁判官としては相当勇気のいる決断だったと思います。いまになれば当たり前ですが、これは確かに吉田克己さん(元三重県立大学)の努力とそれまでの水俣病の疫学上の研究、あるいはイタイイタイ病の研究などが総合されて、その結果、決定的な形で、明解な形で採用されて、以後の大気汚染の被害論の原点になったわけです。

そして、これにもとづいて救済が行われていくわけですが、大変重要だと思うのは1965年に被害がものすごい、ひどい。いわば生きた実験をやったみたいなもんですから、亜硫酸ガスを大量に出す、あるいは、有害物を大量に出す工場をグーっと短期間に特定の地域に集めて、いままで綺麗なところに住んでいた人達にどんな被害が出るか、四日市市民は実験動物にされたようなものなんです。そういう日本型の工業化の中で被害が起こってくると、ほかに原因がないわけですから、明快なわけです。それで、四日市では1965年に自治会の要求や、医師団の要求から最初の被害者救済センターができました。それがその後の被害者救済制度の原型になっていくわけです。

それがもとになって、公害裁判後の1973年に公害健康補償制度ができたわけです。四日市では1300人ほどの人がこの法の認定をうけて、救済されました。人によって違うのですが、2006年末で510人と考えていいのでしょうか? 512人の認定患者が今おられるわけであります。しかしながら、尾崎寛直さん(東京経済大学)の研究をみますと、高齢化していて、合併症があるんですね。私も水俣病やイタイイタイ病の患者をみていてわかったんですが、高齢化していくとはじめの原因だけではなくなってくるわけです。高齢化に伴う病気と相乗していきます。決して、一つ一つの病気でなく、幾つかの複合した病気が進むわけです。しかも、介護が必要になります。

ところが法律は救済する時に、もとの病気で救済しようとするわけです。合併症も出てきているんだから、その合併症も考慮すればいいのに、喘息がどのくらい進行したかだけしかみない。救済の基準にしないわけです。そうすると、非常に医療費がかかってきて困ってるのに、救済費は一向に増えないという問題があります。この点に気づいた西淀川では福祉健康ネットワークをつくって、あおぞら苑という施設をつくって、もっと総合的に老齢化している被害者を救済しようとしているのですが、残念ながら四日市にはそういう動きはないわけです。ですから悪い言葉で言って市民の人々には失礼ですが、孤立させているわけです、被害者を。
せっかく四日市は新しい疫学などで救済を始めたにもかかわらず、現状は他の地域より劣るのではないか。したがって、そういう総合的な救済に向かってこれから動いていくべきではないだろうか。これが第一の四日市の地元での課題ではないでしょうか。
一応ここはずっと、福祉事業として、子供たちの大気疾患を調べていて、いまのところ小児喘息をはじめとする、新しい患者の増大はないとの報告は、見ましたが、しかし、自動車公害の問題は増大しているのだから、もっと徹底した健康診断も行われるべきであるというのが第一の問題点と言えるのではないでしょうか。
写真:講演を聴くフロアーの聴衆も集中し熱心だった

それから、判決で全国に影響を与えたのは共同不法行為による責任の確定ということで、これが、水俣病やイタイイタイ病と違うところでして、コンビナート6社―もしかしたらもっと大きかったかもしれないのですが―という集団の不法行為だ。したがって個別の因果関係より群としての工場が汚染物質をだしていれば共同不法行為として責任を取らなければならない。これは、森島昭夫さん(元名古屋大学)、牛山積さん(元早稲田大学)をはじめとする学者、弁護団の非常に優れた知的成果だったと思います。
結果としてこの地域の総量規制による大気汚染対策は進んだわけですが、これも吉田克己さんの指導によるもので、硫黄酸化物については環境基準を達成しました。
NO2、二酸化窒素についてはちょっと怪しかったんですが、政府が二酸化窒素についての基準を3倍に薄めてしまった。この3倍に薄めるときには吉田さんも委員会のメンバーだったので、吉田さんはマッチポンプみたいな人だなと思いました(笑い)。緩めてしまえば当然のことながらほとんどのところが適合していくことになるので、二酸化窒素については結局緩和されていったわけです。排水についても、まだ生活環境基準には遠いのですが、海の汚染は過去に比べればよくなって、一応、総量規制は進んでいるわけです。

こういう具体的な有害物質の問題について言いますと、公害対策は一応評価され、驚いたことに、四日市はUNEPから表彰されたんです(笑い)。そして、県は地域の公害問題は終わった、これからはその成果を国際的に伝えていくんだということで、国際環境技術移転研究センターをつくり、発展途上国の留学生を指導しているのであります。


四日市の公害は本当に終わったのか? むしろ“新たな公害”が始まっているのでは

しかし、本当に公害は終わったのでしょうか? 
たしかに大気汚染、目に見える裁判で問題になったことについて言えば対策は進んだと言えるのでしょうが、産業廃棄物やフェロシルトの問題を見ると、本当の意味で公害対策は終わっていないのが四日市の現状であると思います。

判決の第三の柱、これは全国に影響をあたえましたが、地元では十分に反省と改革がされていません。
第三の柱とは、立地の過失・地域開発の失敗ということを指摘されたわけであります。あの時は国も自治体も訴えませんでしたが、しかし、これは、明らかに自治体の失敗、それが企業の失敗とかさなっていると思いましたから、裁判の証言、原告側の論告では、それを厳しく論証していったわけですね。裁判官もそれを頭にいれ、判決では罪だとか刑罰をくだすとかではないが、本当は過失があったとはっきり言わなければいけないのですが、国の責任をとらなきゃいけないのですが、そこまではいかないのだけども、はっきりと、立地の過失・地域開発の失敗に言及しているわけです。この点が、実はもっとも地元で遅れた、この判決以後、判決が指摘していた三つの柱のなかで、それを教訓として発展するのが遅れたことではないかと思うわけです。中途半端な公害疎開をやり、また郊外に住宅団地の造成が行われたが、臨海部は依然としてコンビナートに占有されています。私はかつて、ここは工業都市ではない、工場用地都市であって、都市の体裁をなしてないと批判しましたが、それを本当は判決を受けたのであれば維持可能な環境と文化の都市へ再生するという旗印がかかげられてしかるべきだったのです。が、残念ながら、第三の指摘、柱が実行できないために、いまだに今日のような集会が開かれているのであろうと思います。

そこで、我々の検討委員会は、四日市が本当に住みよい町として、かつての企業に独占され、公害のまちだったイメージを一変するような維持可能な環境と文化の町にしたいと研究を続けてきました。口幅ったいようですが、これだけ第一線の研究者が3年間結集してやったということはめったにないことで、今回の提言は私から見てもよくできていて、参加した方々に感謝しています。ほとんどボランティア的な形でやってもらいましたが、この後のシンポでそのエッセンスを聞いていただきたいと思います。

ここでは、私の個人的なコメントをいくつか述べておきたいと思いますが、第一は調査しまして、いまだに心配かつ解けないのは安全の問題です。この間の新潟の柏崎沖の地震をみましても、原発の場合はかなり厳重に地盤の調査をしたと言ってたのですがあの体たらくです。もう少し地震が大きかったらと思うと身の毛もよだつ思いです。ここも大丈夫という意見はよく聞きますが、よくわからないのが、コンビナート自身に自主管理を任せている点にあると思うのです。
我々が調査し始めた時からパイプラインが気になっています。長さが長いし、老朽化していること、それから安全管理の熟練した技術の伝承が行われているかどうか。東海・南海地震は必ず起こるといわれているのですが、それに対して本当に大丈夫なのか? 四日市にとってもっとも重要な安心・安全という街づくりはまだ完成してないし、これから本格的に取り組まなければならない問題だと思っています。
前のシンポでは、管理をコンビナートに任せていて大丈夫なのか? 市内は市民による自衛・減災ということで終わったような気がしましたが、これはこれから申し上げる最初の問題と思われます。

四日市の判決後の長期計画を見ますと、その目的は福祉・環境・文化の3本の柱が理念だと言えますが、問題は実際この三つの柱が本当に実現できるだけの人材・資金・組織をつくっているかどうかです。抽象的にいうのは誰でもできます。しかし、残念ながら四日市ではそういう理念をかかげてはいるが、中心は所得・人口・雇用をいかにのばすかという経済的な開発のあり方が中心になって動いているのではないかという気がします。
しかし、そういう高度成長以来受け継がれてきた地域開発のありかたが今後続くと思いますか? そこが問題です。そういう産業政策中心でいくのだろうか? これは、岡田知弘さんが部会報告書で書いていますように、コンビナートが市の経済財政に締める割合が大きく減退している。石油コンビナート8社の市税への収入への寄与度ってのは1969年38.1%から近年は12〜15%になっている。経済のグローバリゼイションや産業構造の変化の中で、大規模大量生産の素材供給方の重化学工業、このようなコンビナートは古くなりつつある。もっと大量多品種・少量生産の比重が高まっている。すでに三菱系3社の統合がされていていまして、エチレンプラントや量産化製品、汎用樹脂設備の操業の一部停止をしていますし、C重油の需要も減っているわけです。つまり、二つの製油所の常圧蒸留装置の能力は削減されているわけで、そういう意味で言いますと、かつてのコンビナートに比べますと、コンビナート自身の役割が小さくなっているわけです。コンビナートといいますのは本来工場のなかでパイプでつながりながら緊密な製品の流動、地域内集積の効果はもはやなくなりはじめている。今ここのコンビナートが持っている存在価値というのは、コンビナート内部の集積利益をあげて前進するというのではなくて、広く伊勢湾に広がる名古屋の工業地帯や他の地域などと連関することによって、利益をあげていかなければならないわけなので、もはや本来のコンビナートの役割とはちがってきているのではないか。
もちろん、コンビナートは化学が中心なので、すぐにはなくならないでしょうが、昔のような自己完結型の形ではなくなっていく、これをどうするのかというのが本来重大な産業政策の問題だと思うんです。そういう意味では、市が事実上中心にしている産業政策について検討せざるをえない。言い換えればどう再生するか? ということですね。産業政策については本当はもっとお話しなければならないのですが、時間がないので先へ進めさせていただきます。

次に都市計画についてです。
四日市は近くの町との合併もありまして地域が非常に広がりました。このために性格の異なる臨海部と都心と郊外部と山岳部の4つの地域にわかれています。都市計画としてはこの4つの地域を自立させながらどう連帯させて行くかということになるわけです。
私たちは四日市のイメージを変え、本当に福祉文化・環境のまちにしようと思えば臨海部の性格をかえることだと、ずっと主張してまいりました。臨海部は休業地がふえつつあるわけです。当然そういうところは都市計画にはいりこまなければならないのですが、これが日本の臨海工業地帯の大きな弱点でもあるのですが、自社の土地は自社で利用するというのが鉄則で、大きな都市計画での視点でどう利用するかというのがないんですね。実際コンビナートの性格も変わるし、当然空きがでれば市民としてそれをどう使うかを考えないと四日市はよくなりません。残念ながらいまはそれがない。
それから、私たちは前から海の市民へ開放しろ、せめて工場から海岸に直接行くんじゃなくて、海岸が回れるような遊歩道とか魚釣り場などに開放してもいいんじゃないかと主張しているんですが、なかなかそういう計画がない。まあ、第三コンビナートでは親水公園というのを計画していますが、私の感じたところでは市民が日常リクリエーションの場として利用できる空間とはとうてい思えません。コンビナートに隣接している塩浜、橋北、富洲原、富田などは人口が減少して高齢化が進んでいますし、都心の空洞化も進んでいます。20%以上の空き店舗率になっているわけです。
そういう意味では臨海部が改造されない、都心部は衰退する、郊外地はどんどん農地が減っている。これは宅地化している訳ですが、無秩序になくなっています。田畑が1966年の76.9平方キロメートルから2005年に48.2平方キロメートルに減ってますし、林野の面積も減少してるわけです。これは宅地になるだけではなく廃棄物のたまり場にもなっています。もともと四日市は山あり、農地あり、海ありという自然に恵まれた美しい町だったのに、市民の環境や生活レベルでみるとそれぞれに問題を抱えているのではないでしょうか。

第三に行財政ですが、これまでバブル後の景気政策によって公共投資優先できたうえに、これだけ面積を広げてしまったことによって、社会資本に無駄が出るんです。実は上水とか下水とかは市には都市計画地域内だと義務がありまして、変なところに家を建てられますと、必ずそこに上水道や下水道を敷かなければなりません。そこに集積した集落などがあるのでしたらいいんですが、そうでないと市は大変な投資をしなければなりません。いまの赤字の最大の悩みが下水道ですね。区域をひろげすぎたためではないかと思います。


四日市の教訓を活かし大気汚染救済制度の全面改定提言したい

さて、私はここで一つの命題を出して、起承転結にしたいと思っていたのですが、時間が足りません。で、次のようなことを申し上げて終りにしたいと思います。
いま、欧米で都市の再生が課題になっています。つまり、先進工業国で産業構造がかわっていること、グローバリゼーションが進んでいること、地球環境問題が深刻になってきているという条件のもとで、どのまちも都市再生を考えていて、かなり素晴らしい都市再生の理念や実践がおこなわれつつあります。
もちろんそれは、それぞれの事情に応じてやっているわけですが、私はここで、維持可能な社会を明示して、平和を維持すること、核戦争を防止すること、環境資源を維持保全し、人類を含む生態系を維持する。絶対的な貧困を解消して、そして社会的不公正をなくすことを改めて提案したいですね。
それから民主主義を国内外で確立する。そして、思想表現の自由を確立すると同時に、多様な文化の共生・維持を図るということが維持可能な社会だと考えていますが、これは世界国家があれば出来ますが、いまそういうものはないわけで、そう簡単に出来ることではないのですが、ヨーロッパや日本の一部ではこれを地元から完全循環社会をつくろうと努力しています。ですので四日市も「維持可能な都市・四日市」とはどういうように作るべきか考えるべきであると思っておりまして、そこで安心で安全なまちづくり、水都の再生−都心と海を結ぶ交通路を作る。しかし、現実にはコンビナートが存在するので、少なくとも市民が海に接するような遊歩道や魚つり場を考える。そして、国任せの産業育成でなくて、地元で産業の連関を密にし、農業も巻き込んで内発的な発展を考える。裁判で農業を入れなかったことは本当に失敗だった。もし入れていれば農業と市民のつながりも築けたと残念でなりません。

結局、問題は住民です。いま非常に優秀な自治体が統治組織に成り下がってる。そうではなく、本当に都市再生の運動の形になれば四日市はよくなる、と思います。100以上あるといわれるNPOの革新が今後の四日市の未来をになうのではないかと思います。

最後に二つ。
四日市の教訓を活かし、これを機に東京の大気汚染公害裁判とか大都市で広がる喘息患者の増大、あるいは四日市での高齢化した公害認定患者の状況を踏まえて、大気汚染救済制度の全面的改定を提言したいです。また、アスベストのような総合的なものの社会災害制度をつくらなければならない。これを今回迎えた35周年の記念すべき大会の未来へのメッセージとして検討していただきたい。

もう一つは海洋国家のありかたです。
ヨーロッパの都市のように、海から見た眺めが美しいのが海洋国家だ。それに比べ、日本はコンクリートと壁とクレーンです。こんな情けない海洋国家はありません。戦後、日本が海洋国家として出発したときに、そういう美しいまちをなぜ造れなかったか。欧米を歩いていつも思うことです。日本が真の海洋国家を目指すのなら、海から見て、本当に美しいまちが生まれたときにその名にふさわしいのではないか。そして、四日市にとっても望むべき姿ではないかということを申し上げまして、終りにしたいと思います。
                                                          (つづく)
ルポ メニューへ

JEC 日本環境会議