2006 11/23 更新分

ルポ メニューへ
 第8回まちづくり市民講座

▼コンビナート誘致がいまの四日市に残した問題は?▼
≪講 演≫ 波多野憲男さん  「四日市公害と都市計画」
≪報 告≫ 谷口美明さん   「イタリア環境再生計画と文化に触れる旅」の一端
四日市環境再生まちづくり検討委員会主催の「第8回まちづくり市民講座」が06年10月9日、四日市市の本町プラザで開催されました。
来年7月に「四日市環境再生まちづくりプラン」の政策提言案の完成を目指している中で、今回は、これまで四日市市がコンビナート誘致のため進めてきた計画の歪みがどのように現われているのか? 本来あるべき都市計画とは?―を中心に四日市大学環境情報学部教授の波多野憲男さんの講演が行なわれました。
写真左:市民ら約60人の聴衆が参加した
写真右:宮澤賢治の詩を朗読した人見悦子さん

講演に先立ち、富田幼稚園保母の人見悦子さんによって宮澤賢治童話『狼森と笊森、盗森』が朗読されました。この童話は「計画を立てるときは周辺の同意の必要性や共存性」を宮沢賢治が当時から提唱したもので、波多野さんは「今日に通じる精神」として、講演の際に引用するので、講演に先立ち朗読されました。
波多野さんは「この研究は道半ば。いわば仮説の段階。いずれ完結させたい」と前置きして講演に入りました。それをベースに編集部で構成しました。
【文責=司 加人】

◆≪講演≫ 「四日市公害と都市計画」
波多野憲男さん
(四日市大学環境情報学部教授)
65年前のプランが今日の四日市の公害都市化をもたらした
波多野さんは冒頭、「四日市大学で都市計画の講義を担当している建築学科出身の都市計画研究者。きょうの話しも都市の物的環境を計画するという立場からお話しするということで、公害について総合的に研究しているという立場ではないので、公害問題の研究は必ずしも十分に話すことは出来ません」と断った上で、この分野に踏み込んだのは「学生から研究者になったのが1960年代後半で、当時、四日市の公害問題は社会的問題となっていまして、私も宮本憲一先生の著書などを読ませていただき、当時から公害については関心をもっていましたが、10年ほど前に四日市大学に赴任して、四日市の都市計画を勉強してみようと思い、資料集めからはじめました」と紹介、さらに「戦前からのいくつかの資料が手に入り、それを見ていますと、公害と関連しながら少しストーリーが見えてきたといいますか、研究上では仮説的なものにしかすぎませんが、四日市公害のことを少しはお話しできるかなと思っています」として、本論に入りました。
写真:建築出身の都市計画者として四日市の歩みを解析した波多野さん

最初に触れたのは、四日市公害の原因となったコンビナートがどのように形成されてきたのか、その経緯と背景についてでした。
コンビナート形成の萌芽となった1941年の「四日市都市計画図」
四日市の最初の「都市計画」は、1941年、昭和16年、すなわち65年前に策定された<四日市都市計画>に遡及するという。
この計画の特徴の一つは、「いまのコンビナートの南部の塩浜地区の計画です。このときにすでにいまの午起からいまの第3コンビナートにかけて海岸線を埋め立てる」ことを示唆している点にあると、波多野さんは解析。もう1つは「当時は確か関西急行と言われた、今の近鉄の路線変更です。Sの字を今の路線にショートカットするというプランは1941年の時点ですでに描かれていることが分かります。これは、第1コンビナートが形成されていく萌芽になると思います」。
そして、「それまでの四日市はどういう状態だったかと言いますと、1934年に吉田勝太郎氏が市長になり、四日市を「工業都市」にするという市是を掲げました。1936年に羊毛を中心にした繊維工業や南部工業専用港、石原産業と東邦重工を誘致しました。因みに、日本の都市計画は1919年に初めて「都市計画法」が出来まして、当時は国が計画を作っていたわけですが、三重県も内務省の三重都市計画中央委員会というのが開かれたのが確か1926年でした」。

ここで波多野さん、四日市の都市計画に深く関わった人物を次のように紹介。
「当時、三重県の都市計画課長で、内務省の官吏だった兼岩伝一という人です。立案された1936年のわずか8ヵ月前に計画が大きく変更されるという事態が起こるわけです。
この事態を兼岩伝一は次のように言っています。
 元々の区画整理の計画は石原産業と東邦重工の誘致に基く計画であったが、突然、これらの工場に隣接して、約50万坪の重要施設の配置が決定されました。これにしたがって計画を変更し、100万坪工業地になりました。そのための従業員、家族などを入れると、四日市は15万人以上の工業都市になろう、したがって都市計画にする区域を77万坪にする、と。
この突然の計画というのが実は海軍燃料廠だったわけです。

しかし、戦争の勃発で実際の土地開発事業は頓挫しますが、この計画の背景には当時のナチス・ドイツの国土計画を日本でも導入しようということで、四大工業地帯を分散して新しい工業都市を建設しようというプランが作られています。具体的には<伊勢臨海地方計画区域図>というもので、当時の三重県知事を会長とした「伊勢臨海中央計画委員会」が伊勢湾を計画しようというプランです。桑名から四日市にかけて海岸線をずうっと3200万坪を埋立てるというプランが作られています。これは実は1941年の<四日市都市計画図>にすべて反映されています。要するに、海軍燃料廠を受け入れるために巨大な工業用地を造り、これを中心にして将来は市街地が発展するであろうということで、この時点で四日市の埋立計画は表現されていたわけです」。

要するに、いまの第1コンビナート、その後、海軍燃料廠は昭和四日市石油が立地し利用して第1コンビナートが形成されるわけですが、その後の午起の第2コンビナートから第3コンビナートにかけての海岸を埋め立てるという方向性がこのときすでに現われているということを指摘。「そういう意味では1941年のプランは四日市のその後の工業都市としての発展方向をかなり決定づけたプランだった」と分析します。

この後、話は一挙に戦後に飛び、これは1960年に策定されたプランは四日市が戦災にあい、まったく焼け野原になったため、復興委により戦災復興土地区画事業が行なわれ、現在のような中心市街地の状況になったものの、実はこれのマスタープランがあるが、きょうの話題からはずれるので省略すると断り、1960年のマスタープランが描かれた時期はどういう時期だったかについて次のように言及しました。
「海軍燃料廠の跡地に昭和四日市石油が進出し、それから石油関連産業が出来て、第1コンビナートという形で本格的な活動が始まった時期、まさに四日市公害の元になるコンビナートの活動が展開されるということになるわけですが、午起の第2コンビナート地先の埋立がすでに行なわれています。その後、現在の第3コンビナートに結びつくような計画としては、1960年当時は石油関連でなく、最初は八幡製鉄、その後は東海製鉄というように、製鉄会社を誘致するということでこのプランが始まったと思います。この計画を作る背景は、当時は高度経済成長政策が展開される中で、日本のエネルギー政策が石炭から石油に大きく転換される時期でして、四日市石油基地として整備されたわけですが、このプランはいわば私たち都市プランナーの立場から言いますと、もっとも理想的な工業都市のプランが描かれたと言えます。
なお、このプランは四日市が国土計画協会に委託し、そこで研究され、作成されたものです。鈴木房次、稲葉修三、木内信蔵、東畑四郎、高山英華など錚々たるメンバーで、この作業の中心になったのは東大の高山研究室で、その後、日本の全国総合開発計画などにずうっと関わっていく下河辺淳氏もこのプラン作成に関わってきます。報告書にも名前が出ています。当時は、国のプロジェクトの一環として、工業都市としてどのように計画するかということと、総合的に研究するという課題がここに課せられていたわけです」。

ここでのプランは海岸沿いの工業地帯、既存の市街地―233号線、1号線の間の既成市街地、それから郊外のコミュニティのニュータウンを作っていく。その間に生産緑地―農地をはさむ。さらに緑と公園というように、新しい市街地を郊外の中に埋め込んでいき、周りは生産緑地とグリーンベルトで囲むという考え方で、既存の工業地帯と新しく出来る住居地域との間に生産緑地、農地を保存して緩衝地帯にするというものだったとか。
そして、四日市の基本的な都市計画について波多野さんは「後に下河辺淳氏は述べていますが、全国総合開発計画の中で茨城県の鹿島を考えた際、農業地域の中に人口的な堀割を造って、その周りに工場を配置して農業地域に住宅地を計画するというプランが出来ていくわけですが、四日市はそれの基本的なスタディになったということです。そういう意味では四日市の現在の都市構造に少なからず影響する考え方がこの時に提示されていたということだと思います」と定義づけました。

公害が顕在化して作成された<公害対策マスタープラン>
次に、1969年に公表された「公害対策マスタープラン」に話題を転じました。
「タイトルに<公害対策>と銘打たれているのは、みなさんご存知のように1960年頃から公害問題が社会的な問題になるわけですが、そういう中で、市としてもその対策を講じざるを得ないということで提案されたものです。

図:公害が社会問題化したことに対応せざるを得なかった
これは先ほどの1960年の都市計画と関連しながら作られていると見ることができます。これもさきほど触れた高山研究グループが中心に動き、川上秀光という人がここの委員会にも関わっています。日本都市計画協会に委託し、そこで公害対策研究会という組織を作り、その場で議論、検討されました。
このプランについて、私は、公害対策という意味では未完に終わった計画ではありますが、今日の四日市の都市構造に影響を与えたという意味では実現した計画であるということと、一方、公害の被害を受けた住民にとってみれば幻想の計画だったという点で、一定評価しています」と、この「」公害対策マスタープラン>を評価。続けて、「それではこのプランで何が提案されていたかということですが、基本的には公害ありきと言ったらいいと思いますが、このプラン、国の外郭団体である工業立地センターに委託して、大気における亜硫酸ガスの濃度を測定し、いわば稜線図のようなものを描いているわけです。亜硫酸ガスの大気中の濃度の現状を固定した上で、公害発生源を含む重化学工業が立地できる地域、ある程度公害が及ぶ地域、公害が及ばない地域の3つに分けて、それぞれの都市計画を立案するというものでした。その結果、実現されたものとして霞ヶ浦先の第3の石油コンビナート、18万人の新市街地造成計画と郊外住宅団地、高速道路と井桁状の道路網、緩衝緑地(中央緑地と霞ヶ浦緑地)などをあげることが出来ます」。
したがって、<公害対策マスタープラン>ではありましたが、必ずしも意図通りの計画実行とはならなかった、と波多野さんは結論づけました。

四日市の都市計画は住民の公害被害に対しては無力だった
このように、四日市公害の発生源である石油コンビナートは都市計画の下に形成されてきたわけですが、反面、「都市計画が住民の公害被害に対しては無力であったことも事実でした。この原因は、日本における都市計画の「おくれ」を上げざるを得ません」と、波多野さんまとめに入りました。

「日本の都市計画は国の都市計画権限の下に策定されてきました。1919年「都市計画法」と1968年の「都市計画法」に基きます。とくに1968年の都市計画法には
「都市計画、都市計画事業及毎年執行スヘキ都市計画事業ハ都市計画委員会ノ議ヲ経テ主務大臣之ヲ決定シ内閣ノ認可ヲ受クヘシ」
とされているように、内務省が大きな権限を持っていました。具体的には「国土計画協会」や「都市計画協会」へ委託されていました。
一方、地方自治体への権限委譲が行なわれたのは1968年法で「市町村より都道府県知事に委譲されるも、最終的には国の認可が必要でした。2000年の法改正で都道府県、市町村の自治事務へ譲られ、「協議し、同意を得る」ということが打ち出され、最近では基礎自治体への権限委譲と計画への住民参加が認められつつあります。四日市においては、自然共存ゾーンなどがその例と言えます」。

そして、冒頭朗読された宮澤賢治の『狼森と笊森、盗森』については、「何を申し上げたかったかと言いますと、土地利用の思想、土地所有と土地利用の自由、そして周辺との同意、同意に代わるルールが必要不可欠であるということです。土地は本来、勝手に利用されてよいものではありません。「計画なきところ土地利用転換なし」を理念とした都市計画制度、すなわち土地利用の可能性は計画によって付与されるものであり、今の都市計画は人々の共同生活空間の先取りと思えてなりません。そういう意味で、日本の都市計画は「計画なきところ土地利用転換なし」の精神をもって立案され、実行されることを強く望む所以です」と結びました。
【写真はいずれも06年10月9日、四日市市本町クラブで、山下英俊さん撮影】

◆≪報告≫ 「イタリア環境再生と文化にふれる旅」
谷口美明さん
(四日市市職員労働組合連合会)
参考にしたい「単なる自然保護でなく、開発概念そのものを変える地域再生計画」
講演に続いて、四日市市職員労働組合連合会の谷口美明さんから、9月に参加した「イタリア環境再生と文化にふれる旅」の報告が行なわれました。谷口さんから、その時の報告の中から「四日市環境再生」の参考例となろう「ポー川デルタ公園環境再生計画」を中心にまとめたメモが写真とともに寄せられたのでご紹介します。
写真:ポー川デルタ公園環境再生計画は四日市環境再生の参考なると報告した谷口さん
【撮影:山下英俊さん】


06年9月8日(金)〜18日(月)、「中部の環境を考える会」25周年企画の「イタリア環境再生と文化にふれる旅」に参加したので、その一端を紹介する。

主な視察先は、@ヴェネツィア・モーゼ計画(ラグーナ保護と水質汚染、水門建設)、Aポー川デルタ公園環境再生計画(工場公害で汚染された環境の復元再生事業)、Bボローニヤ市歴史的景観保存(保存的開発手法による都心再生)、Cエミリア・ロマーニャ州環境政策、Dフィレンツエ市環境政策
写真:ポー川デルタ公園はイタリアの北東にある
今回は、コンビナート後の四日市の環境再生の参考にもなると思われる「ポー川デルタ公園環境再生計画」を中心に報告したい。

ポー川流域は、自然に恵まれたイタリアでも最も豊かな農業地帯であったが、農業干拓や石油化学工場建設などで干潟など環境破壊がすすんだ。この地域を再生する手法として公園化による環境再生型地域計画が進められている。
写真左:コマッキオ市の漁師博物館。作業場の前で、ウナギのマリネ缶を手にした担当者から説明を聞く視察団
写真右:公園内のレストランの前にひろがる景色。干拓後遊休地となった農地を整備

写真左:公園内のコマッキオ潟の1954年(干拓前)の航空写真
写真右:コマッキオ潟の2003年の航空写真。北部の湿地帯が干拓されている
【写真はいずれも谷口美明さん撮影】

1999年にはフェラーラのルネサンス期の市街とともにポーデルタ地帯がユネスコ世界遺産に登録され、公園の保護地域には4万人の住民が住んでいる。公園化は、単に干潟など自然を戻すだけでなく、観光など産業基盤の整備として地域住民とともに進める地域再生計画である。

1954年頃からの干拓で、例えば人口2万人のコマッキオ地区周辺の湿地は10万ヘクタール近く失われ、今では1万ヘクタールが残るのみとなった。ラムサール条約が制定された1970年代から湿地保護の必要性が文化遺産保護協会の提言などで広がり、1988年に州法で公園指定がなされた。当時は様々な意見があったが、1996年には地域全体の合意ができ、公園化の地域計画として現在も進行中である。

観光施設のひとつ漁師博物館を訪れた。そこは、昔の漁法やウナギの燻製工場を展示やビデオで紹介し、ウナギのマリネ(酢漬け)の缶詰の製造販売も行なっている。また、観光インフォメーションも行い、地域の観光拠点の役割を担っている。その他市街地においても、運河や橋、古い建物の修復を行い、観光地としての整備している。北アフリカに移転した製鉄所は商業倉庫として利用している。また、干拓のあと遊休地となった農地を整備するとともに、レストランも配置し、スローフード、エコツーリズム、グリーンツーリズムを実践している。この地域は世界で2番目の規模のバードウォッチングの拠点として知られ、EUではさらにフラミンゴの繁殖場をつくる計画もある。これらの取り組みにより、ポー川デルタ公園には海水浴客、観光客が毎年700万人訪れている。
 
こうした環境再生計画は、この区域に住む農業従事者、漁業従事者をはじめとした地域住民の理解と協力なしには進められない。四日市市のコンビナート後の環境再生を考えるにあたって、ポー川デルタ公園はもともと広大な湿地帯であったことが異なるが、公園化計画が単なる自然保護ではなく、これまでの開発概念そのものを変える地域再生計画であることは、四日市市環境再生計画の参考になるのではないか。
ルポ メニューへ

JEC 日本環境会議