2006 09/06 更新分

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 アスベスト国賠訴訟 第1回口頭弁論傍聴記 <上>

▼国家賠償求めた初のケース いよいよ始まる
アスベスト禍で健康被害を受けたとして、大阪・泉南地域の石綿工場の元労働者や周辺住民・その家族ら8人が全国で初めて国家賠償を求めた訴訟で、その第1回口頭弁論が06年8月30日、大阪地裁で開かれました。定員100人の第202号大法廷には入り切れない傍聴者が詰めかけ、この問題の社会的関心の強さを現し、終了後、中之島公会堂で行なわれた報告会でも多層な支援者が参加、この裁判の経過をしっかり見守ることが確認されました。
口頭弁論での意見陳述の全文、報告会の様子、さらには、去る5月26日、国の責任の明確化と全面的な被害救済を求める国家賠償請求訴訟を起こした際の内容・意義・進行などを記録として3部に分けて掲載します。 今年2月、日本環境会議の泉南アスベスト禍現地調査に同行した。今回のレポートはその第2弾です。 
写真左:第1回口頭弁論が開かれた大阪地裁
写真右:大阪地裁前に集まった原告と弁護団、支援者
*裁判所側の厳しい規制で「記者会」メンバー以外は正面からの写真撮影が禁止された
【いずれも06年8月30日、大阪市・大阪地裁で】

■意見陳述 1■  原告  南 和子
小西義博裁判長は06年8月30日午後1時30分、本訴訟の口頭弁論の開始を宣言。意見陳述のトップバッター、原告の南和子さんが緊張の面持ちで意見陳述を始めました。そして、2人目の原告・岡田陽子さんへと続きます。

「国は放置してきた責任を認め、生活上の負担や精神的苦痛償え」
私は,このアスベスト国家賠償訴訟原告の南和子です。去年2月2日に私の父は亡くなりました。
父は,石綿関連の職歴は1度もありませんでした。戦後間もなく農業に従事するようになり,その後ずっと田畑の耕作を行ってきました。父の耕作していた田畑の隣りには,三好石綿工業というアスベスト工場がありました。このアスベスト工場は,比較的規模が大きく,敷地も建物も広くて,いくつかの建物が建っていました。それらの工場の建物には窓が無数にあり,毎日,窓から粉じんを飛散させていました。工場の南側には大型集じん機が取り付けられ,そこから,大量の白い粉じんが,生のまま何の処理もされずに,もうもうと放出されていました。外は風がよく舞うので,工場から出る埃がいつも舞い上がり,父の耕作していた田畑一面に真っ白い粉じんが入ってきて,玉葱やキャベツ,米にまでかかっていました。工場側の建物と畑の距離は1メートルくらいしかなく,その真下で農作業をしていた父は,粉じんをまともにかぶっていました。
写真:南和子さん

父は,70歳を過ぎたある日,突然体調を崩し,血痰が多く出るという,思いがけない症状に見舞われました。父を医師に診せたところ,医師からは「あなたはアスベスト工場で働いたことがあるのですか。肺にアスベストが突き刺さっている」と言われました。それを聞いて,父も私もびっくりしました。医師からは「アスベストを取り除くことはできません。一生このままです」と言われ,たいへんショックを受けて帰宅したのを憶えています。農民なのになぜ石綿肺にならなければならないのでしょうか。吸い込んだ粉じんが長年の間に肺に蓄積され,肺を患うことになったに違いありません。
父は,酸素を肺で吸収しそれを全身に送ることができない状態で,寝たきり状態になり,13年間ベッドの上での生活を強いられました。私は,父から目を離すことができなくなりました。父は,亡くなる1年ほど前からは,酸素吸入器を使用するようになっていましたが,目を離すと,酸素濃度設定のダイヤルを,決められた数値以上に,限界まで上げるのです。父は,「ヒーフー,ヒーフー,ゼイゼイ」とむせながら咳をしたかと思うと,血痰が喉の奥に詰まる発作を頻繁に起こしました。父は,苦しくて真っ赤な顔になり,「ううー苦しい」ともがきました。そういうときには,気管支拡張剤を使って発作を抑えるのですが,その際,父は,苦しい息の中で「なぜこんなに苦しいのかのう」と言うのでした。父が涙を流すこともしばしばでした。父は,まるで拷問のような苦痛に苦しめられ続けたのです。私は,「遠からず死を迎える父はどんな思いで毎日を過ごしているのだろうか」と思うと,いたたまれない気持ちになりました。
病気による死の恐怖にさらされながら送る日々の中で,父は,「1日は1年ほど長い」とよく言っていました。目を閉じて「もうあまり長くはないなあ」とあきらめのようなことを言うこともありました。体はやせ細り,まるで骨と皮だけのミイラのようになっていました。父は,亡くなる1週間前に風邪をこじらせ急性肺炎を発症しました。呼吸困難でぜいぜいと息苦しく,吐く力もなくなって言葉を発することもできず,見舞いの方々に手で何かを伝えようとしていました。「寛三さん,何言うてんのか。しっかりせい」と皆が励ますのですが,父は,言葉が出ないので,手で皆の顔を触り涙を流す有様でした。自力で息を吸い込もうと胸をのけぞらせて手足をばたつかせ,皆を困らせました。最後には,息を吸い込む力,吐く力が衰え,苦しみ抜いた末に死が訪れました。父は,「この苦しみを訴えたい」と言い残して亡くなりました。父は,最期まで,この耐え難い苦しみから逃れられなかったのです。
アスベストを吸い込んでいたのは,父だけではありません。私も,幼い頃父が農作業をする間,畑の脇の粗末な小屋に寝かされていました。アスベストの工場から50メートルも離れていないところに家があって,そこで育ちました。私も,たくさんの粉じんを吸っているはずです。だから,今健康に非常に不安をかかえています。
このままでは,苦しみ抜いて死んでいった父の無念の思いは晴れません。この裁判を通じて,国はアスベスト問題を放置してきた責任を認め,私の父が受けた苦しみと,父のみならず家族の受けた生活上の負担や精神的苦痛も償ってほしいと思います。

■意見陳述 2■  原告  岡田陽子
2人目は岡田陽子さん。ご両親だけでなく、自らもアスベストによる石綿肺に侵されていること、息子さんが成人するまで看護士の仕事を続けなければならない厳しい現実を訴えました。

「石綿の危険性を工場労働者に啓蒙しなかった国は許せない」
私は,このアスベスト国家賠償訴訟原告の岡田陽子です。
私の両親は、以前、阪南市にあった小さな石綿工場で働いていました。私は、その石綿工場の真横にあった社宅で生まれ育ちました。工場と社宅の間は、大人が横になって通れるくらいしか空いておらず、工場と社宅の窓が向かい合っていて、社宅の窓を閉めていても、部屋の中にアスベストの粉じんが入ってくる状態でした。そのうえ、私の生まれ育った社宅の周りには半径100メートル以内に、4つもの石綿工場がありました。
母は、子供が小さい間は、仕事を休みたかったようですが、当時の石綿工場は景気が良く、会社に子供を連れてきていいから仕事に来てほしいと言われ、アスベストの危険性を全く知らなかった母は、小さな私を連れて、仕事に励みました。
写真:岡田陽子さん

母が、仕事をしているそばで、私は、材料を入れる大きなかごに入れられて、じっと座っていたそうです。工場の中には、いつもアスベストの粉じんが舞っており、幼い私の頭に石綿の真っ白なほこりがつもっているのを見て、母はかわいそうに思って、私にそっと帽子をかぶせたと言います。
このようにとても優しく働き者の母ですが、アスベストが将来重大な肺の病気を引き起こすことを全く知らずに、幼い私を連れて、一生懸命仕事に励みました。
石綿工場で働く両親のそばで、私も、両親と同じようにアスベストの粉じんを吸い込み、育ちました。
 私の父は、石綿肺と診断され、「思った以上に肺がへばっていて危険な状態です」と医師に言われ、咳や痰や息苦しさに苦しみ、治療を続けていました。父も母と同じように、石綿工場で長年働いてきたので、労災の申請をしたのですが、労災給付の決定が下りる前に、肺ガンで亡くなりました。父は、労災の給付が下りないことを気にしながら「苦しいのに、何で、何で。」と何度も言いつつ亡くなりました。父の肺ガンが発見された時には、すでに末期ガンの状態で、医師から余命半年を宣告されましたが、父の寿命はわずか4カ月弱しか持ちませんでした。医師の説明によると、ベースに石綿肺があると肺ガンの発見が遅れるとのことでした。父は、胸に手を当てて「いつもと違う。妙にしんどいんや。変に苦しいんや。」と何度も言いつつ、急激に衰弱していきました。食事を調理する際のにおいをかいだだけでも気分が悪くなり、食事自体を受け付けず、最後には水分しかとれない状態で、よほど苦しかったのでしょう。父は「病院に連れて行ってほしい。」と自分から言いだし、入院してわずか5日で亡くなりました。66歳という若さでした。

父に先立たれた母も、今、石綿肺に侵されています。石綿肺と診断されてから、母は毎日「楽に息がしたい。普通に息を吸いたい。」と苦しみながら生活し続け、20年近くが経ちました。母は、長年、胸や背中の痛み、咳や痰、のどの違和感などに悩まされ続けています。食事を取る際には、うまく食べ物を飲み込めずにむせ込むことが多くあります。咳き込んだあと、唾液や食べ物がうまく食道に行かずに、このまま息が止まるのではないか、死んでしまうのではないかと思うことが頻繁にあります。このようなむせ込みを防ぐために、きつい咳止めの薬を飲むことが増えてきました。また、母は、いったん風邪を引くとなかなか治らず、冬中風邪をひいているような状態です。体力が低下し、人一倍疲れやすく、人混みに行くとすぐに息苦しくなるために、外出することさえままなりません。
そして、私も、今、石綿肺に侵されています。いつも咳や痰が多く出て、あめ玉をなめていないと喉がかすれて声が出ない状態です。ほんの少し小走りをしただけでも、息苦しく、動悸が激しくなります。また、胸の痛みや圧迫感、背中の痛み、息苦しさのため、お風呂に入るときには腰までしか湯船につかることができません。胸まで湯船につかると、肺がお湯の圧力で圧迫されて、息が出来なくなってしまうのです。
私は、現在、看護師の仕事をしています。夜勤をこなし、患者さんの入浴介助を行い、不規則なシフトの中で一生懸命働いています。咳や痰、胸の痛みや圧迫感、背中の痛み、息苦しさが絶え間なく続くこの状態で、看護師の仕事を続けていくのは、本当につらいことです。でも、私は、今、どんなにしんどくても、仕事を辞めるわけには行きません。私には、高校に通う16歳の息子と、石綿肺で苦しむ母がいます。この2人の生活を支えるのは私しかいません。息子が成人するまでは、私は倒れるわけにはいきません。かつて、私の母が私にしてくれたように、私も息子の母として、一生懸命働き、子供を育てていかなければなりません。
私は、両親と違って石綿工場での職歴がないため、労災では一切救済されません。何の救済もない私にとっては、子供を育てるために、どんなにつらくても看護師の仕事を頑張っていくしかないのです。
私には、石綿工場での職歴はありません。でも、両親の職歴イコール私が石綿にさらされた年月です。会社に子供を連れてでも働きにきてほしいと言われて、幼い私を連れて仕事に励んだ結果、家族ぐるみで被害にあってしまったのです。私は、両親の労災申請のために労働基準監督署に行くたびに、労働者の家族は救済されないのかと問い続けましたが、何の動きもありませんでした。
私たちの家族以外にも、もう1人、同じ石綿工場の社宅で生まれ育った人がいますが、すでに肺の病気で亡くなったと聞いています。石綿工場の社長の息子さんも肺の病気でなくなったと聞きました。
今、母は、私に言います。「石綿がこんな重大な病気を引き起こすのを知っていれば、子供を連れて石綿工場に仕事に行くようなことはしなかった。社宅には住まなかった。石綿の仕事はしなかった。」と。国は、石綿の危険性について知っていながら、石綿工場の労働者及び家族や地域住民に対して十分な説明指導を行わず、何の対策も講じることなく放置しました。このような国の無責任な姿勢に怒りを感じ、絶対に許せないという気持ちでいっぱいです。この裁判を通じて,国はアスベスト問題を放置してきた責任を認めてほしく思います。

■意見陳述 3■  原告代理人 尾藤廣喜
3人目は京都水俣病訴訟弁護団員の尾藤廣喜弁護士が原告代理人として、アスベスト禍と水俣病事件は酷似しているとして、裁判所にその教訓を活かした判断を求めました。

「石綿被害と水俣病の国の責任は酷似。裁判所は歴史の教訓活かして欲しい」
私は、原告代理人として、本件の石綿被害の特質とその救済のありかた、とりわけ被害救済における「国」の責任を考えるにあたって、水俣病との共通性に驚かざるを得ません。
かつて、私は、水俣病京都訴訟の原告代理人として、大阪、京都を中心として、西は山口県、東は愛知県までのいわゆる県外「水俣病」被害者の救済を求め、国とチッソを被告とした損害賠償事件を担当致しました。
本件の石綿被害の甚大な被害の発生・拡大における国の責任について、国は法的責任を否定しておりますが、その経過と責任否定の論理は、まさに水俣病における国の関与の経過と論理に共通しているのです。
水俣病が公式発見された1956年(昭和31年)5月から間もない同年11月、熊本大学の研究班によって、その原因がチッソ水俣工場の廃水によるものであることは、明らかになっていました。ところが、国は、加害企業チッソと一体となり、チッソ水俣工場の廃水規制を全く行おうとしませんでした。それどころか、1959年(昭和34年)7月、熊本大学の研究班によって、原因物質が有機水銀であることが公表された後も、チッソ、財界、国は一体となって、有機水銀説に執拗な反論を加えました。
厚生省の食品衛生調査会の「水俣食中毒部会」は、1959年(昭和34年)11月12日、水俣病の原因は「ある種の有機水銀化合物」であるとの答申を厚生大臣に行いましたが、厚生省は、この答申を生かして対策を講じどころか、翌日には、「水俣食中毒部会」を解散してしまったのです。
一方、熊本県は、1957年(昭和32年)7月には、チッソ水俣工場の廃水規制という方法ではなく、食品衛生法に基づいて水俣湾内の汚染された魚の漁獲禁止措置を行うことを決定し、念のため厚生省にその措置の妥当性について、照会しました。ところが、厚生省は、この照会に対して、「水俣湾内の特定地域の魚介類の全てが有毒化している証拠がない」などというまことに珍妙なる理論で、食品衛生法に基づいて魚の漁獲禁止措置を行うことを認めなかったのです。一体、湾内の全ての魚介類が有毒化している証拠をあげるなどということは、どうすれば可能なのでしょうか。また、食品販売会社などで起きた一般の食中毒事件で、販売した全ての食品が有害であることが立証されなければ、その会社の販売した商品の販売停止ができないなどということがありえないことからしても、厚生省のこの回答の異常さは、明らかでしょう。
国が、このように、水俣病の原因隠蔽を工作し、あらゆる珍妙なる理屈をこね回して、規制をしなかったのはどのような理由によったものでしょうか。それは、当時日本の化学工業が、アセトアルデヒドから石油化学工業に中心を移行する中で、産業全体の発展のために、アセトアルデヒド工場の操業をどうしても停止してはならない、水銀の垂れ流しを規制してはならないという国と化学工業界の一致した方針のために、水俣地域の住民の生命と健康が犠牲にされたものに外なりません。
にもかかわらず、水俣病の発生・拡大について、損害賠償事件でその責任が追求されるや、国は、一体どのような論理でその責任を回避しようとしたでしょうか。
曰く、「国には、水俣病の規制をすべき法的な権限がない。」また、「規制権限が、国に与えられていても、それは、国民の権利を定めたものではなく、国民は、反射的利益として規制の恩恵を受けているだけである。」さらには、「規制権限を行使するかどうかは、行政庁の裁量にゆだねられており、その不行使が違法性を帯びることはない。」などのまさに居直りとしかいえない論理でありました。
しかし、住民の生命と健康がまさに危機に瀕し、国がそれを知っていた場合に、国は生命・健康の侵害から国民を守るために積極的な措置をとる義務を負うことは当然のことであり、国に、規制権限を行使するかどうかの「裁量」があるなどということはあり得ません。その場合、国は、あらゆる法律を駆使し、また、適切な法律が万一ない場合にあっては、規制のための立法を行ったうえで、住民の生命と健康を守る義務があるのです。
ましてや、水俣病の歴史に見るごとく、産業全体の発展のために、地域の住民の生命、健康が犠牲とされることが許されるはずはありません。
水俣病の2004年(平成16年)10月15日最高裁判所第2小法廷判決、1993年(平成5年)11月25日の京都地方裁判所判決は、まさにその法的な論理を明白にしたものに外なりません。
訴状で詳しく述べました石綿の使用・輸入禁止の規制の経過を見ても、本件は、単に結果的に「石綿規制が遅れた」などというものではなく、国際的なトレンドにあえて逆らってまで、国は、「石綿規制を意図的に遅らせてきた」ことは明白です。国は、水俣の歴史と同様に、国民の生命・健康よりも産業政策を優先するという政策判断を積極的に行ってきたのです。
また、上記に加えて、私は、水俣病の経過と石綿被害の経過を比較して、本件の損害賠償請求に関して、裁判所にどうしても申し上げたいことがあります。
それは、水俣病問題が公式発見されてから50年を経過した今なお解決されていない原因として、先にあげました国の法的責任回避という点に加えて、国が水俣病の病像を極めて狭い範囲に限定してきたという点が上げられるということです。
国は、水俣病の認定にあたって、水俣病被害の実態をみることなく、水俣病かどうかの判断を、求心性視野狭窄、構音障害、感覚障害などの7つの障 害の複数の組み合わせがあるかどうかという極めて厳しい基準を持ち出し、多くの水俣被害者の救済を拒んできました。そして、これが、先の最高裁判所判決で厳しく批判され、感覚障害のみで水俣病と認めて差し支えないとの判断がなされ、水俣病認定における国の基準の変革が求められました。
ところが、国は、未だに、司法判断と行政判断とは別であると強弁し、水俣病認定の基準を変更しようとはしていないのです。
そして、国によるこのような狭い病像の設定と救済範囲の限定という方針は、給付額の低額という点もあわせて、今回の石綿新法でも貫かれており、すべての石綿被害が救済の対象となるのではなく、石綿肺を救済対象から切り捨てるなど、隙間のない救済とは到底言えない不十分な法律のままとなっています。
このように、石綿被害の範囲(病像)という点においても、水俣病被害の切り捨ての歴史が繰り返されようとしているのです。
裁判所におかれては、このような水俣病で採られた国の責任回避、被害の切り捨てという歴史の教訓を十分理解していただいて、本件の裁判において、石綿被害の防止のために、国には、国民の生命健康を守るための「基本権保護義務」があること、そのために、労働基準法、大気汚染防止法、毒物 劇物取締法等の法律を十分に行使し、石綿粉じん飛散防止策を確立し、石綿の危険情報を広報するなどし、必要であれば、立法提案権及び立法権を行使して、可能なあらゆる防止策を講じる責任があることを明確に認めていただきたいのです。
また、石綿被害者の救済のためには、被害の実態から出発し、被害の全てを救済するに足りる病像の確立こそが必要であることを明確にして頂きたく心からお願いするものです。
それこそが、水俣病の長い被害の歴史から導かれた石綿被害の真の救済への重い教訓であると確信しております。

■意見陳述 4■  原告代理人 山下登司夫
人目は全国じん肺弁連幹事長の山下登司夫弁護士が原告代理人として、東京地裁や熊本地裁で扱った全国トンネルじん肺根絶訴訟の経験を踏まえて意見を述べました。

「石綿の有用性だけに着目し 被害防止の手立てをしなかった国の責任は明らか」
原告ら代理人の山下です。私は、本件の代理人ですが、それとともに全国じん肺弁護団連絡会議の幹事長の立場にありますので、その立場から、国の責任を断罪した、全国トンネルじん肺根絶訴訟の東京地裁判決(2006年7月7日)、熊本地裁判決(同年7月13日)を踏まえながら意見を述べたいと思います。

東京地裁判決は、「国(旧労働大臣)は、遅くとも1986年末には、@粉じん測定と結果の評価、A湿式さく岩機と防じんマスクの重畳的な使用、Bナトム工法のコンクリート吹付けの作業者、機械掘さく・ズリ積み作業のオペレーターにエアライン・マスクの使用を義務付ける省令を制定すべきであり、この不行使は国賠法上違法である」として、原告46名(患者単位)中、41名に対し損害賠償の支払いを命じました。
また、熊本地裁判決は、「国(旧労働大臣)は、@1960年時点で、粉じん対策としての散水、及び発破退避時間の確保、A1979年時点で、湿式さく岩機と防じんマスクの重畳的な使用、B1988年時点で、粉じん許容濃度の設定と粉じん測定を義務ける省令を制定すべきであり、この不行使は国賠法上違法である」として、原告156名(患者単位)中、130名に対し損害賠償の支払いを命じました。
両判決では、作為義務の発生時期、制定すべき省令の内容に違いがありますが、いずれも、トンネルじん肺の根絶を切に願っている原告たちの思いを真摯に受け止め、国の責任を断罪したもので、私たちは高く評価をしております。
ところで、両判決は、本件を判断するうえで十分な示唆をあたえるものと考えます。両判決のキーワードは、以下の三点にあります。

その一つは、規制権限の不行使の違法を認定する判断枠組みです。両判決は、いずれも「労働者の生命・健康の確保を目的とする労基法・安衛法が旧労働大臣に省令制定権限を委任した趣旨に照らせば、省令制定権限は,粉じん作業に従事する労働者に対し,その労働環境を整備し,その生命,身体に対する危害を防止し,その健康を確保することを主要な目的として,できる限り速やかに,技術の進歩や最新の医学的知見等に適合したものに改正すべく,適時かつ適切に行使されるべきものである」と判断しております。この判断枠組みは、国(旧通産大臣)の規制権限の不行使の違法を断罪した筑豊じん肺最高裁判決(2004年4月27日)を踏まえたものですが、人の生命・健康を保護するための国の規制権限の行使のあり方について普遍的な考え方を示すものです。

二つ目は、国の違法を判断するにあたって、じん肺の甚大な被害の実態を真摯に受け止めているということです。じん肺は、多量の粉じんを一定長期間吸入することにより発症する疾病で、現代の医学をもってしても治癒が不可能であり、粉じん職場を離脱しても進行し、予後は極めて悲惨です。じん肺患者は、咳、痰、息切れ等のじん肺特有の被害に苦しみ、より症状が増悪すると、横になって寝ることもできず、風呂にも入れず、酸素吸入にすがって一生を終わるという者も少なくありません。また、じん肺患者を看護する妻の肉体的、精神的な苦労も並大抵のものではありません。石綿被害も、まったく同じです。

三つ目は、トンネル工事が国策として推進されてきたということを踏まえ、規制権限の行使の必要性を判断しているということです。戦後の復興期から今日に至る過程で、国策として、新幹線等の鉄道、高速道路等の道路の整備が強力に推進され、これに伴って多数のトンネルが建設されてきました。そして、多数建設されてきたトンネルの掘さく作業に従事してきた労働者の中から多数のじん肺患者が発生しております。1976年には、トンネル労働者の集積地である大分県南部地域に多数のじん肺患者が埋もれていることが明らかになり、大きな社会問題となりました。しかし、国策として推進されてきたトンネル工事のじん肺防止対策は、極めて不十分な状態にあるにもかかわらず、じん肺防止対策に行政責任を負っている国は、その有する権限を適時かつ適切に行使することを怠ってきました。その結果、トンネルじん肺が大きな社会問題となった後に制定された改正じん肺法以降においても、療養を要する重症のじん肺患者が多数発生しており、改正じん肺法が施行された1978年から2004年までの厚労省の統計によっても、全産業の要療養患者(38,312人)のうちトンネルじん肺患者は9,049人で、全体の24%を占めるという驚くべき状況にあります。このような状況を踏まえ、東京判決は、「トンネル建設工事は,いわば国策として行われてきたものであり,しかも,全国的な規模と広がりを持つものであって・・・じん肺被害の発生は,構造的なものといっても過言ではない」のであるから「トンネルじん肺に対する規制を講ずべき必要性があった」と述べています。熊本判決も、同様の判断をしています。

以上に述べました両判決のキーワードは、規制権限の不行使の違法を判断する上での基本的な視点です。しかも、単に両判決だけではなく、筑豊じん肺最高裁判決が判示する基本視点であり、司法として確立した考え方です。
石綿被害は甚大です。また、石綿は、国策として、建築、造船、自動車等あらゆる分野での使用が推進されてきました。その結果、多数の石綿被害者が発生しており、将来においても多数発生することが確実なものとして予測されています。しかも、その被害は、石綿を取り扱う労働者だけではなく、労働者の家族、地域住民、さらには国民誰もが被害者になる可能性をも秘めています。ところが、国は、石綿の危険性と被害の発生を戦前から認識していながら、石綿の「有用性」にだけ目を向け、石綿被害を防止するための規制権限を行使してこなかった結果が、今日の石綿被害の社会問題化を招いているのです。

裁判所におかれましては、このことを十二分にご認識され、原告たちの早期の被害救済と、石綿被害の防止に資する判断をされることを要望して、私の意見とさせていただきます。

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