2006 04/12 更新分

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▼ルポ スペシャル 前編▼
◆大阪・泉南地区のアスベスト禍聞き取り調査同行記◆


大阪府の南端、泉南市と隣接する阪南市一体には伝統的に石綿紡織業が盛んだった。中でも泉南市には“石綿村”と呼ばれた一大アスベスト加工業地帯があった。しかし、今やほとんどの企業が撤退あるいは転業。代わりに「アスベスト禍」という負の遺産だけが残された………。

この事態を重く見た地元市民の有志が05年8月「泉南地域の石綿被害と市民の会」を立ち上げ、これを受けて「大阪じん肺弁護団」が「大阪じん肺アスベスト弁護団」を結成し、日本環境会議(JEC)に協力要請したところ宮本憲一代表理事が呼応、自ら先頭に立って現地での聞き取り調査を開始した。その1回目の06年2月16日、同行する機会を得た。その日の情景描写とともに、後日、関係者にメール・インタビューを行ったので合わせて報告したい。         


【文責:司 加人(環境ジャーナリスト)】


■市民の会の柚岡さんが全体説明


「最盛期は200社も。だが典型的な中小零細企業が大半だった」

▼ 11:50 泉南市樽井区市民センター ▼

冒頭から面目ない話だが、実は集合時間に遅参してしまった………。

新大阪で、案内された列車に乗るべく東京を発ったのだが、新大阪に着くと「尼崎付近で事故のためJR各線のダイアは大幅に乱れています」とのアナウンス。が、なにはともあれ阪和線のホームに下りたが、なるほど電車が来ないためホームは人で溢れている。待つこと数十分。乗り継いで最終目的地の「和泉砂川駅」」に着いたのは集合時間より大幅に遅れていたという次第………。

「和泉砂川駅」で市民の会代表世話人の柚岡一禎(ゆおか・かずよし)さんのご子息・太一郎さんにピックアップしてもらい、会場の樽井区民センターに着いたのは11:50。2階の部屋に駆け上がると、ロの字型に関係者がびっしり着席、4組ほどのテレビクルーやメディア関係者がやり取りを見守っている。

全体説明は予定時間を大幅にオーバーして行われた
=06年2月16日12:00

そんなわけで、冒頭説明は直接聞けなかったが、この運動のリーダー、「泉南地域の石綿被害と市民の会」の代表世話人でこの日の進行を仕切り、冒頭説明をした柚岡さんに後日フォローしてもらった。その骨子は以下の通りである。

                この地の石綿業の発祥は、『日本書紀』に記されているほど古いが、はっきりしているのは約500年前の天正年間に遡る。そして、江戸中期に農家の現金収入の道として「和泉木綿」として売られるようになり、明治の終わり頃になって、今風に言えばベンチャー精神を持った栄屋誠貴が樽井地区で盛んだった紡糸工程「ガラ紡」に着目し、石綿の製造に応用したのが1921(明治45)年の「栄屋石綿」の操業になった。

                第一次世界大戦の特需がこの地区の石綿製造・加工業を飛躍的に大きくさせ、大正末期には7工場になり、海軍省・鉄道省の指定工場になったりし、戦後も造船・自動車・冷暖房用器具などの民間需要の伸びに応じて転換、1960〜70年代の最盛期には原料から糸・布を製造する石綿紡織の一貫工場は60数社、下請け・家内工業・内職などを入れると200以上にのぼったと見られる。生産額も増え、全国シェアは60〜70%を占めた。特徴的なのは、経営主体に在日朝鮮人の進出が上げられる。

                しかし、企業規模は最大でも40人程度で、20〜30人が4〜5社、他は12〜15人程度で、下請けと家内工業はもっと少なかった。以下の表でも分かるように、泉南の石綿業は典型的な小規模零細業であった。また、製品はクボタやニチアスなど大手に出荷された下請けの立場だった。

 

市 町 名

 

泉南市

阪南市

泉佐野市

岸和田市

貝塚市

岬 町

和泉市

熊取町

田尻町

合 計

従業員数

(人)

1〜5

14

14

3

2

1

1

1

   36(人)

6〜10

4

9

2

1

16

11〜15

11

1

1

13

16〜20

5

3

1

1

10

21〜25

1

1

1

3

26〜30

1

1

31〜35

0

36〜40

1

1

41〜45

1

1

46〜50

0

50人以上

2

2

 合   計

28

38

4

6

3

1

1

1

1

83

                この構造が今日、泉南の石綿禍の実態掌握を困難にさせている。石綿粉塵の大半は布帛を製造する泉南の紡織工程で発生しており、そのため石綿禍というリスクはこの地に残っており、大手企業の一つだった旧「三好石綿」(現、三菱マテリアル建材)は70年年代半ばまで半世紀にわたり泉南市新家地区で操業し、かなりの地元業者が同社の下請けとして存在したが、ここでのアスベスト禍が多々報告されている。

                しかも、同社の従業員の多くは地元出身ではなく、故郷に戻って肺疾患を発病しているケースもあり、地元にそのまま住み着いた人の中にも肺疾患を患っている人が少なくない。また、忘れてならない点として、従業員への被害だけでなく、周辺農家への石綿被害が作物のみならず、住民がじん肺から肺がんを併発、死亡している例があり、さらには工場近くに幼稚園があったことから、今後被害が拡大することも懸念される。

 

【左】真剣な表情で説明を聞く宮本・淡路・大久保さんらJEC関係者(右から)
=06年2月16日12:45
【右】「石綿村」のマップ。赤い点が泉南・阪南両市のアスベスト工場跡
=06年2月16日12:55


■22年現場にいた前川さんの話

「労働環境は劣悪だったが賃金水準が高かった」

そして、実際に「栄屋石綿」に勤めていた前川 清さん(84歳)が柚岡さんに促され、手製の資料をかざしながらトツトツと説明してくれた。その概要は以下の通りである。 

                戦後、兵隊から戻り1年余り務め、一時離れたが昭和36(1961)年11月に2人目の現場責任者として大手の「栄屋石綿」に入った。同58(1983)年1月に定年退社するまで22年2ヵ月務めたことになる。

                大手企業だったので当時から他の中小規模の会社にはなかった集塵機を備えていたり、設備はそこそこ改良された、扱っていたのは白石綿が中心だった。

                年2回、工場内のホコリなどを労働基準監督署が来て検査していた。従業員の身体検査も年2回行われ、その結果は監督署から会社に「通知書」が来た。私はじん肺管理区分で「管理2」だった。(注=管理1、2、3イ、3ロ、4の5段階に分かれており、2は「粉じんにさらされる程度を少なくすることが必要です」と記述されている)

 
【左】自筆の資料を掲げ説明する前川さん
=06年2月16日 12:00
【右】薄くて見にくいが、前川さん宛てに昭和56年12月25日付けで届いた「じん肺管理区分等通知書」
=以上、いずれも樽井区民センターで

                従業員は防じんマスクを着用、鼻と口をカバーしていた。98%がカットできると聞かされていた。今で言えば3Kの仕事になるのかもしれないが、続けたのは他の仕事に比べて賃金がよかったからだ。でも、仕事をやめて24年たったいま、先の検査で「胸膜肥厚斑」と言われた。家内も病んでいる。

一通りの説明の後、宮本憲一さんや大久保規子さん(大阪大学教授)、東京から駆けつけた淡路剛久さん(JEC理事長・立教大学教授)や村松昭夫さんら弁護士グループから矢継ぎ早に質問が出され、柚岡さんたちが答えて、12:50頃、午前中の全体会合を終わった。

 

■新家公民館でも聞き取り

旧「三好石綿」工場周辺住民から赤裸々な状況説明

▼ 13:30 新家公民館 ▼

昼食後、なぜか誰も同乗しない(?)村松弁護士の車に淡路先生と乗せてもらい、降り出した雨の中を新家公民館へ移動する。「新家」―さきの柚岡さんの報告にあった大手の「三好石綿」工場があった地域だ。午前中の会場より狭いためもあって部屋は満員。すでに女性6人、男性1人の地域の人たちや地元選出の市会議員が待機してくれていた。事情により、お名前とお顔を出せないのが残念だが、みなさん50歳から70歳代とか。

周辺住民(右側)の人たちからはこもごもアスベスト禍の体験談が報告された
=06年2月16日13:50

柚岡さんがまず「旧三好石綿は海軍指定の軍需工場だった。こちらの調査ではピーク時、80人もの従業員がいて、工場敷地も相当広かった。昭和52(1977)年に撤退したので丸28年が過ぎたことになる工場跡地はしばらくは空き地だったが、数年前に大きなマンションが建てられた」と口火を切り、集まってくれた地域の人たちに発言を促すと堰を切ったように話し出した………。

                女性:操業当時、工場周辺は農地、田んぼだった。その周辺で農業をしていた人たちの肺に障害が出た。思い出せば周辺の3-4反の作物はみな枯れた。

                女性:「三好」から「三菱」になってから仕事が変わったのか、昼間空中に吐き出された毒ガスが夜になると地面に降りてきて、朝には真っ白になり、ここらの特産の玉ねぎや野菜などみなやられた。肉眼でも白いふわふわしたものが落ちているのが分かった。

                男性:うちの畑から3メートルくらいの所に大きな集塵機があり、そこから排気していたので、「なんとかならんか」と何度も工場に言いに行ったが、会社は「中で仕事してる人間が平気なんだから、外なら大丈夫や」と取り合ってくれなかった。

                女性:私たちが言いに行くと、そのときは窓を閉めてくれるけど、少しすると開けていた。市役所や保健所に頼んで見てもらっても、その時間帯は出さないけど、夕方になると排出するという繰り返しだった。

                女性:祖父は農業だったが、昭和62年に血たんが出たので病院へ連れて行ったら、医師が「石綿がくっついている」と言う、石綿工場で働いていたわけじゃないのにショックだった。

                男性:平成13年に呼吸器がひどく苦しくなり、右の肺の下の部分が白いということで、呼吸器科の病院を紹介され検査したが分からず、さらに入院して精密検査したけど分からなかった。知らない間に胸膜炎になり、知らない間に直ったんだろうと言われたが、去年になってもしかして石綿ではないかと思い、公民館で検査してもらったら「石綿肺で胸膜肥厚斑。右の下の肺は機能減少」と診断された。

                女性:家は離れているが、田んぼが(工場に)近かったためと思われるが、冬だけでなく夏も風邪を引いたような状況が続いている。

                女性:私の畑は今のマンションのすぐ近くだが、昭和40年頃、NHKの検診車が来たので診てもらったら肺が思わしくないと言われ、保健所に行ったら大丈夫だろうと言われた。しかし、50年頃からはずっと咳とタンに悩まされ、呼吸困難な状況が続いている。

                女性:(三好の)従業員はほとんどが遠いところから集団就職などで来た人たち。体調を崩しても帰れない苦しさなどから随分敷地の先の池に投身したことがある。そして、このことは(会社から)他言してはいけないと言われていた。

                女性:工場のすぐ隣に幼稚園があり、通園していた子供たちが石綿を吸っていたことが容易に考えられる。これから発症するのかと思うと悲壮な気持ちになる。みんなで力を合わせてなんとか闘っていきたい。先生方初めみなさんのご協力を切にお願いしたい。

ここでも予定を大幅に超えたものの、地域のみなさんの訴えが続けられ、研究者・弁護士側の表情は刻一刻と真剣さを帯びてきた。

村松弁護士から、「次の現場へ行く時間なので」という声で、聞き取りはようやく終了。徒歩で問題の旧「三好石綿」の工場跡地に移動する。

 

■いよいよ現場へ

跡地に建てられたマンション住民の心境いかに?………

▼ 15:00  旧「三好石綿」工場跡地 ▼

雨脚がいっそう強さを増す。

旧「三好」の工場跡地は新家公民館から歩いて数分のところにあり、10階建ての大型マンションは顔を真上に上げないと視野に入らない。すぐ近くに、さきほどの聞き取りでルル訴えていたOさんの畑が春の到来を待っていた。

テレビクルーも含め30人あまりの集団の移動は目立ち、道行く車が徐行して行ったり、マンションの前のコンビニの店員さんから「何かあったんですか?」と聞かれる。「いや、アスベスト禍の調査ですよ」と答えると、「ああ、あれね。みんなほとんどそういうこととは知らないで移ってきた人ばかりですよ。地元の人はいませんけどね」。

旧「三好」の工場跡地には大きなマンションが。表土を覆土して建てられたという
=06年2月16日15:10

今は昔 栄華のひとかけらも感じられず………

▼ 16:00 「石綿村」 ▼

旧「三好」工場跡地から海側へ泉南市から阪南市に入り、西方に進み、いわゆる「石綿村」へ向かう。柚岡さんによると、40年代は泉南市の牧野地区が石綿村と呼ばれたが、60年代、70年代の最盛期にこの阪南市の一角に移ったという。しかし、天候のせいもあったが、目に映る工場建屋は転業しているものがあったり、廃屋のままになっていたりして静寂、というより寂寥感が漂っている。残念ながらかつて活気に溢れ、原料や製品を出し入れする車が行き交った、工業地帯独特の雰囲気はまったく伝わってこない。

締め切り時間が迫ってきたのか取材に来ていたテレビ局が工場などを背景に、いっせいにインタビューを始める。事態の深刻さを体感したのか20数年前から「アスベスト禍」の重大性を指摘してきた宮本憲一さんも東京から駆けつけた淡路剛久さんも、現状・実態の厳しさに声のトーンが下がり気味で、インタビューは重苦しい雰囲気であった。

【左】泉南市議で「市民の会」の世話人の林さん(左)の説明を聞く宮本さん
【中】デジカメで記録する淡路さんを撮影するテレビクルー
【右】柚岡さんに質問する大久保さん(左)
=いずれも06年2月16日 16:00〜16:40

▼ 17:00 阪南市下出地区 ▼

雨脚は弱まったが、あたり一面にはもやが出始めた。農業用水が川に流れ込んでいたが、茶褐色に濁っており、この日の聞き取り調査を象徴しているような風景だった。

17:00。夕暮れが迫り、重苦しい雰囲気の中で、現地解散となった。

いずれも往時の活気ある工場には見えなかった
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JEC 日本環境会議